Site Y.M. 建築・都市徘徊
なんとなく考えているコト

建物が無くなるということについて ー 廃屋は既に終わっているのか?

 忙しい街の中では廃墟などに関心を示す人などほとんどおらず、故にそれが解体されてなくなってしまっても、人々はそのことをさほど気にしない。新たな建物(恐らくキラキラした建物)が建つと、人々の注目が集まるかもしれないが、そのとき私たちは、以前に建っていた建物がどのようなものだったかをしばしば忘れている。そのようにして建物の記憶はいつしかどこかへ消えてしまう。

 しかしこの建物も、廃屋となる以前を知る人はいるはずで、大なり小なり彼らの記憶の中に残っているはずのものである。都市の中で建物を残していくということは、人々の記憶を蓄積し、積み重ねていくことに他ならない。

 往々にして私たちは、建物が無くなることによって、初めて自分の記憶のどこかにその建物がある位置を占めていたこと、はたまた自分の記憶が曖昧だったことに気づかされる。そして記憶のよすがが失われてしまったことに喪失感を抱く。このことは建物に限らず自然、生活、文化など私たちの周りの様々な環境に対して言えることなのではないだろうか。

 数年ぶりに訪れた旅先で、以前と変わらぬ街並み、店などを見つけると、嬉しいし安堵する。そのような場合に、街並みが変わらないでいて欲しいと願うのはごく自然な感情で、これが失われていた場合には残念に思われる。それは廃屋の場合でも似たようなもので、廃屋となった様子を、体験として記憶にとどめた場合、廃屋は懐かしく思われる対象となり、記憶のよすがとなる。従って、使われていない建物であっても、その存在は人々の記憶に何らかの影響を与えており、それが失われれば喪失感を抱く人がいる。

 一般に、廃屋となってしまうと、それは必ず壊される運命だと考えて良かろう。しかし、更地にすることは蓄積されてきた記憶を途切れさせる。一方、廃屋は無人であるが故に、時間が停止していて、逆に在りし日の姿を想像させるという特殊性を持っている。絶えず変化して止まない東京の都心で、そのような場所が少しはあっても良いだろう。従ってこれらの建物を廃屋のまま遺跡のように残すのは、都市の歴史を顕在化させ、魅力を増加させる意味で、興味深い一つの方法なのではなかろうか。また一方で、目に見えるかたちで記憶が更に蓄積されていくために、改装してもう一度利用していくのも、建物の命を延ばし全うすることにもなるという意味で興味深い方法である。


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