Site Y.M. 建築・都市徘徊

斜面地利用の遷移と東京の都市形成


江戸期(〜1868)
 江戸期においては身分、階級に基づく住み分けにより、高燥で良好な住環境である台地上には武家が配されていた。また宗教施設(寺社)は政策上重要な位置付けがなされており、同様に台地上もしくは微高地といった安定した場所に立地していた。従って斜面地は殆どが武家や寺社の敷地内となっていたが、地形的制約を受けて開発が容易でなかったため、建物の敷地としては利用されていなかった。武家地では樹林地または庭園となっていることが多く、寺社地でも境内の庭園や墓地となっている場合が殆どであった。

明治期(1868〜1912)
 封建制度の解体と共に、旧武家地はその大きな敷地割りを継承しつつ明治政府または民間に委譲された。これらは一旦は荒廃し、殖産興業策を背景に桑畑、茶畑とされ、青山、麻布、小石川などは茶の産地であったが、斜面地も一部ではこうした土地利用がなされていた。明治維新の動乱の後、人々が再び東京に集まり始める中で、高燥で安全な台地上に居を構えるという考え方に変化はなく、従って斜面地の姿は基本的に江戸期と変わらず庭園や樹林地、空地が広がっていた。一方、山手線敷設に伴い盛土や切通し部分には、石を積み上げたり土留めを施した堤が築かれ、斜面地への漸進的な対応が窺える。

大正・昭和戦前期(1912〜1945)
 華族の宅地解放、関東大震災後の東京集中、借地法・借家法の公布等、様々な社会情勢を受けて、斜面地は大きく様変わりした。急激な宅地需要は、それまで宅地造成が困難で、利用が不便なため未利用地とされてきた斜面地にまで及んだ。こうして建物がひな壇状に重なり建ち並ぶと同時に、段面を区分する崖が無数に発生するという状況が、斜面上で見られるようになったと推測される。また震災復興等による道路事業は、当時隆盛を極めた路面電車敷設を伴うものであり、こうした場所では盛土・切通しにより斜面に大きく手が加えられた。こうした中、斜面を跨ぐ形で存在する大規模な華族屋敷地や公用地では、台地上に建物が建ち、斜面は庭園等に利用され、依然自然地形が残存する場所も多かった。

戦後期(1945〜)
 戦後、大地主が土地を手放し、土地所有が零細化・細分化してゆく過程で、斜面地の住宅密集化は更に進んでいった。一方、高度経済成長期には、建築基準法改正等を背景として、東京では建物の大規模化が急速に進むことになった。法人が所有する大規模な敷地内では、旧来から存続していた自然斜面が大きく改変されるような一体的再開発が行われた。また小さな家屋が密集した斜面地でも、市街地再開発事業や高層マンション等への建て替えが行われ、長大な崖の発生と共に大がかりな地形の改変がなされた。こうして山の手地域から自然斜面は殆ど姿を消し、大小の崖によって構成された人工的な斜面地が大勢を占めることとなった。

Written By Tamaki Matsuo

07.8.11


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