旧東海道を歩く 興津 街並み

1994.5.3

 興津の街道筋には木造で、平屋、逗子二階、二階建て等の町屋、仕舞屋が続く。江戸期以来の建物には平屋が多い。また制度的に二階が許されなかったため、二階が屋根裏部屋のようになった逗子二階も見られる。これらの一階軒先はおしなべて低く、手を挙げれば届く高さで下手をすると樋に頭をぶつけてしまいそうな箇所もある。また奥行きのある大きな屋根が特徴的。

 一方、大正期以降のものは階高が高くなり、出桁で軒の出を深くして、通り沿いに壁面を大きく見せている。

 今回歩いたのは憲法記念日。しかし最近は日の丸の旗を門口に掲げる家は少なくなった。昔の家には玄関脇の柱や門柱に旗差し用の金具がしばしば取り付けられていた。新築の家にはこれはまずない。興津の家は木造出桁の旧家が多く、歩いていると所々で旗を見かける。

 入口の辺りを見回すと、日本赤十字社会員のプレートや神社のお札、日本遺族会のプレートなどが釘で柱に打ち付けてある。今となってはどうして赤十字や遺族会のプレートを付けるのか私にはもうよく判らない。遺族会のプレートは心なしか街道沿いの旧家に多く見られる気がする。そういえば地方では墓地に行くとやけに軍人の墓が目立つ。地方の人にそのような人が多いのだろうか。なんだか複雑な気分だ。東京では見かけなくなったプレート一つで昔へ引き戻される気がする。考えてみれば30年くらい前までは都心にもまだいろいろと戦争の跡が街に残っていた気がする。昭和の終わりと共に何かが急に消えていった気がしてならない。

 国道一号はバイパスとして海側を高架で突っ走り、旧道を行く車は少ない。しかし東名やバイパスが出来るまでは、旧国1は日本の東西の大動脈であり、大型ダンプやトラックが大量に行き交い、交通事故が多く排ガスも相当なものだったという。今は通過交通も少なく昔日が嘘のように静か。


由比同様、興津でも奥行きの長い町屋が並ぶ。
07.8.12
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